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もう、ここにはいません。残骸はてきとーに処分してみたりみなかったり。
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いやね、読みましたよ「あたし彼女」。検索したらレビューは腐るほど出てきたんで、なんか書くのも今更感が漂うのですけれども。たいしたことは言ってないので、とにかく文章を読まないと手が震える文章中毒である、とか、髪の毛を抜いて爪でキーってやって擬似陰毛を作るのに飽きた、とか、そういう駄文を読んで時間を潰そうって人だけ読んで下さい。書き終えてから読み返したら無駄に長いです。
他にやることはないのですか? 諸葛亮。

短歌詠みがそれについて書くんだから、折角だから短歌と絡めた話にしてみよう等と無謀なことをしてみます。

短歌っていうジャンルと、ケータイ小説というジャンルを比較した時、まず、そこにいる人間の多寡の問題ってのがあると思うのです。ケータイ小説っていうのは、今回読んだ「あたし彼女」、それ以前の作品としては、「恋空」、「Deep Love」なんかの名前だけは知っていますが、基本的にはいわゆるF1層、もしくはそれより下の世代のための物という気がします。その中でも、いっつもケータイの画面眺めてはぽちぽちやってる人が対象であり、またその人たちが作ってるっていう意味でね。いや、実際にそこに入っていった訳でなく、サンプルはあくまで今回のこれだけなんで、正しいとは言い切れませんが、そんなに遠くはないと思います。だいたい、いい歳したおっちゃんがぽちぽちケータイで読みながら「めっちゃ感動した」とか言ってたら駄目でしょ、絵的に。そういう意味では、受け入れの間口はかなり限定されていて、当人たちにとっての「リアル」、もしくは「ドリーム」ではあるのかもしれないけど、それ以外には「ワケわからん」なシロモノに留まっているのかもしれない。だからこそ、あれに共感できる一定数が存在しているんだろうなぁ、と。そして、俺、部外者。通り過ぎてみただけの異邦人。…部外者名乗ってその話するのってどうなんだろ?まぁ続けるんですが。一応は読んだ上でだからいいっしょ。

一方、短歌って言うのは商業的に歌集を出してたり、短歌結社で活動してる人がいたり、チラシの裏に書いてたり、大学ノートに書いてたり、僕のようにネットでトグロ巻いてる人がいたり、と、狭いジャンルとか言われながらも、それなりに人がいない訳ではないのです。それも老若男女問わずに、です。間口の広さって意味では、かなり広いのではないかと。だからこそ、全部が全部を理解できるのではなく、また共感を得るってのが難しい部分はあるのですが。あらゆる世代や立場を越えて共感できる、なおかつ薄まってないものってのは歌詠いの理想ではあるかもしれないけれど、それは空手の「一撃必殺」みたいな浪漫。少なくともその域に今の僕は達しちゃいない。果たしてそこまでいけるのかすらわからない。拳で駄目なら銃で撃てばいいじゃない。ミサイル打ち込めばいいじゃない。

さて、次にジャンルとしての成熟度合いの問題ってのが出てきます。今回のこれはケータイ小説大賞の第三回って事なんですけど、それってつまりジャンルとして未だ黎明期でしかないという意味で捉えて構わないんだと思います。前々からネットでは「オンライン小説」なるものが存在していますが、ケータイ小説は、それとは多分対象も作り手も違うという意味で、全くの別物であるといって良いと思います。よく見る批判に、「こんなの小説じゃない」ってのがありますが、これは「ケータイ小説」であって、既存の小説と同列で論じるほうが間違いでしょう。小説の名を冠していても、全く違う何かであると捉えるのが正しいかと。今回、「あたし彼女」については、多分、あの独特の文体があって広くネタにされている部分があると思うのですが…あの文体でなんかネタ書いた人、挙手。…ノシ
あれが良いか悪いかは別にして、「ケータイ小説」の手法としては多分新しい試みであったんだと思います。いかにあの狭い画面を効果的に使用するかという意味での、ね。そして多分それは成功した。少なくともネットにそれが(たとえネタとしてでも)繁殖してるのがその証拠。だってそれ以外に褒めるトコないもんよ。話の筋は、「自分をかばって事故で死んだ幼馴染の男の子によく似たちょっと陰のある不良が、雨に濡れてる子犬を抱きかかえてたとこを見て気になりだして、最終的に不良が『オレは修夜だ!聡じゃねぇ!オレを!修夜を見ろ!』とか言って何だかんだあってハッピーエンド」の青年誌(要はエロ有り)男女逆バージョンみたいなもんでしょ。昭和の漫画かよ。あと、言語センスにしても「ビールもチ○コも生がいい」とか「忙しガール」とか「ニャンニャン」とか、ねぇ。ひょっとして最新の流行って、一周してオヤジの域に辿りついてんの?正直、見るべきはその表現方法であって、書いてあることはどうでも良いんじゃないかとすら思ってしまう出来ですね。ケータイ小説としての表現方法の確立、ストーリーのプロット、そういうものが煮詰められて来たら、それなりに評価しうる物が今後出てこないとも限らないのかな、と。逆に言えば、まだそういう所での発展段階であって、切り開くべき所は山ほどあるんじゃないかな、と。どっちに走ってもフロンティア。切り開いた先に何が見えるのかは知りませんが。あと、オトコのためのケータイ小説ってなんで出てこないのかなぁ?単に商売にならないから取り上げられてないだけの話なのかな?

さて、短歌のほうですが。僕は口語短歌の人なので、口語短歌に限定して話を進めますが、このジャンルにしたって「口語短歌の革命」サラダ記念日が1987年、つまりそれから20年という時間の蓄積がある訳です。20年って言ったら首の据わってない赤ん坊が、初恋に敗れてみたり、青い性を目覚めさせてみたり、太宰やマルクスにかぶれてみたり、「誰も産んでくれなんて頼んでねぇよ!」とか言ってた過去の自分に枕に顔をうずめて足をバタバタさせてみたりするのに十分な時間ですよ。そのなかで、桝野さんがいて穂村さんがいて笹さんがいてと、それぞれの切り口で新たな地平を開いていっているわけで、大抵のことに先駆者がいるって状況なわけです。「桝野がいて穂村がいて笹がいて、その上で短歌作るんだよ?はっきり言って後出しじゃんけんだよ?」なんて言い方もできますが、それゆえに先達の壁ってものも存在するわけで、自分らしさ、自分の歌ってのがなかなか見つけにくい。これはもう誰かがやったことだ。だからその先に行かなきゃならない。でも、どっちに?だからこそ面白いしやり甲斐もあるんですけれども。あ、出来てるかどうかは別問題ね。まだまだ「メーターは振り切ってもいいんだ。むしろ振り切るべき」ってとこまでしか来れてないです。

結論としては、だからケータイ小説は駄目、とか短歌やってる俺sugeee!とかではなく、「人に認められるものを作るのって大変だね」ってことです。なんて言いつつ、人に認められるために、じゃなくて自分のために短歌やってんですけどね。自分の詠いたい事を好きに詠って、面白いと思える歌を掘り出して、そんで共感できる人が見つかって、そういう人と切磋琢磨し合えれば、それはそれで幸福なことなので。その上で、それを良いって言ってくれる人がいたなら最高だよね、というお話でした。どっとはらい。

こんな事でも書かないと、必死で読んだ時間が無駄になるんだよ…負の連鎖。

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