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彼のtwitterでの発言を取り上げてみる。
胸が震えてしかたないから言葉で暖めようとする。指がそこまで届かないから言葉をさしのべようとする。ここではないどこかへ捧げるうたはまずここで汗を流し靴底を減らさなければ歌えない。そういう単純な信仰を僕は持っている。
彼の作品から感じられるある種の"影"(などと形容するのは陳腐かもしれない、が)は、これを届けようとする対象が、既に失われている、或いはもはやどこにもないこととも関係があるのかもしれない。しかし、取り残された彼は、それを今でも大事に持ち続けている。「あなた」のいた夏の光は、とうに失せてしまったんだとしても。時間は、残酷に均等に過ぎていくんだとしても。恐らくは、一生。
作品中からもうニ首引く。
県名を15しか言えない君のためになくなれ俺のふるさと
ありがとう、ばか、いかないで、愛してる 喜怒哀楽をぜんぶください
ここにあるふるさとの限りない軽さ。それは「あなた」の重さ、と言い換えてもいい。そして、得られなかった、彼に直接向けられることのなかった「あなた」の喜怒哀楽。かつて2首目の歌を彼の作品の(そして、ひょっとしたら僕の知っている短歌の中の)マイ・ベストと評価したことがある。当時、この不在の「あなた」という視点でこの歌を読んでいた訳ではないが、この視点に立って読んでも、やっぱりこの歌が好きだと思う。熟成させ続ける想いと、その想いの向け先への届かなさ。届かないことを承知の上で、なお想う。だからこそより強く。ここではないどこかの「あなた」へ。ねじくれた、と自称する自傷にも近い想いの深さ。この人は、どれだけのものを。彼の作品を目にした時に、それを思う。
それを酒に例えてみよう。酒の供しかたにはいろんなやり方があっていいだろうし、また、その稚拙はあるだろう。アルコール度の高い原酒を出すのか、飲みやすい形に薄めて出すのか。薄めて飲み易くするとして、それは水割りか、お湯割りか、それともカクテルにするのか。出す場所はどこか。酒屋の棚か、飲み屋か、バーか、宅飲みか。どうやって出すのか、ぐい呑みに注ぐのか、綺麗なグラスか、マックの景品か、紙コップか。ただ、一番大切なのは、その「酒」そのものが旨いか不味いか、なんじゃないだろうか。どれだけ言葉を飾ろうとも、どれだけ雰囲気を作ろうとも、隣に誰がいようとも、飲ませる酒そのものを持たなければ、酒そのものが不味ければ、それには意味が、ない。少なくとも、人に味あわせる、酔わせる、心を動かさせるには値しない。そして、この作品からは、遠野サンフェイスが熟成させ続けている、酒の味というものが確かに感じられるのだ。
彼の短歌と写真に惹かれた一番の理由は、それなんだと思っている。
(追記)
なお、紙版の「ビューティフルカーム」は2011年6月12日、23回文学フリマに出品されました。ひょっとしたら、次回コミケ等でも出品されるかもしれません(こちらで告知があると思います)が、買いに行くにはちと遠いなぁ、という方には電子書籍版が購入いただけます(上の画像からいけると思います)。収録作品に変化はありませんが、装丁が変わっていますので、紙版をお持ちの方も読み比べてみるのもいいかもしれません。是非。
あと、未収録の大抵の作品はここ(短歌)とここ(写真)で見ることができますので、併せてどうぞ。
看板はこちらから。